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春道堂への道③

ずいぶん日が空いてしまいましたが、前回からの続きです。

 

……

 

すすきので物件探しを始めて数ヵ月、ついに理想に近い店舗を発見した私はいつものように友人のPに同行を頼み、内覧に向かいました。

 

もしかしたら今日中に契約が決まるかもしれないと期待しながら向かったのですが、ドアを開けた瞬間に激しく落胆しました。

 

内装があまりに古く汚く、排気設備もなく、営業できる状態にするにはかなりの改装費用がかかると分かりました。あんなに良い場所なのに家賃があんなにも安かったのはそのせいだったのかと。

 

物件を見終えて仲介業者さんと別れた後、Pと一緒に近くのサイゼリアに入りました。安いワインを飲みながら二人、しかめつらですすきのの地図を眺めていました。この日の物件には大いに期待していた分、私の気持ちはひどく沈んでいました。

 

落ち込んでいてもどうにもならないとの友の提案で、考えを整理することにしました。

 

1、今ある物件の中から妥協して物件を決める

 

2、納得のゆく物件が出てくるまで待つ

 

友は地図にそう書き込みました。

 

「このどっちかしかないよね。どっちにする?」

 

ペンで文字を指しながらそう問われ、私はしばし腕組みをして考えました。

 

「まず1はだめだな。開店を焦って、妥協で選んだ物件で店を開いてはいけない気がする」

 

「じゃあ待つ?」

 

「う~ん、待つのも嫌だな。条件に合う物件を待っていたら、永久に店なんて持てないかもしれないし」

 

待てば条件に合致する物件が必ず出てくるとも限らないし、そもそも「待つ」という言葉自体が消極的な感じがして嫌だと思いました。

 

「でもこのどっちかに決めなきゃ。妥協したくないなら待つしかないよ。どうする? 妥協する? 待つ?」

 

いつまでも待ち続けるのは嫌だ、でも、妥協した場所で店を開くのはもっと嫌だ。選択肢はこの二つしかないことも分かっている。どっちも嫌ならどうすればいいのか…… 

 

「いや、利家で」

 

ワインの酔いも手伝って、しょうもない冗談が口を突きました。あまりのくだらなさに二人とも面白くなってしばし笑い続け、地図に利家と書いてはまた笑いました。

 

その後、ワインを立て続けに飲み、憂さ晴らしにバーに向かいさらに飲みました。飲んでいるうちにだんだんと吹っ切れた気持ちになってきました。

 

物件選びを妥協するつもりはない。現段階で条件に合う物件がないのなら待つより他にない。しかし、ただ座して待つだけではなく、私にもやれることもあるのではないか。

 

まずはもっと積極的に情報収集をしよう。ネット物件探しを続けることはもちろん、すすきののビルの一つ一つに入ってチェックし、条件に合致しそうな所をすべて洗い出して、仲介業者さんに空き物件を調べてもらおう。

 

 

やるべきことが見えて来た途端に、折れかかっていた心がしゃんと直り、俄然気合が入り、仕事の後に毎日のようにすすきののビルチェックに繰り出しました。

 

時は厳寒の2月、マイナス10度を下回る夜のすすきのを何時間もさまようのは辛いことでしたが、目指すことに向かって行動している実感があり、仲介業者さんからの連絡を待つだけだった頃よりもずっと気が楽になりました。

 

ビルのチェック項目は以下のとおりです。

 

・一人で営業できる小さな店舗がある

・トイレは男女別&清潔

・36号線の北側。南側なら一丁まで

・ビルと周辺の雰囲気が明るい

・空きテナントが少ない

・近隣やビル内に露骨な風俗店がない

・人気店、有名店がテナントに入っている

 

この中で最も重視したのはトイレでした。驚くことにすすきのの古いビルには男女共用のトイレがいまだに多く存在します。男女別でも薄暗かったり、汚かったり、和式しかないところも多いです。

 

お酒を飲めば当然トイレも近くなります。私ならトイレが汚い店には飲みに行きたくないし、やむを得ず店に入ったとしても尿意を催した途端に会計をして店を出ます。

 

なによりビルのトイレは私も毎日利用するのですから、使うたびに不快を感じるようなところは絶対に嫌です。トイレだけは絶対に妥協しないと心に決めました。

 

 

今回のビルチェックから外れた物件は今後紹介があったとしてもスルーするつもりですから、後悔することがないよう、北は南2条から南は南7条まで、西は1丁目から7丁目までと広め範囲に設定し、その内にあるビルを一つ一つチェックしようと思いました。

 

仕事が終わると地図と二色の蛍光マーカーを持って夜のすすきのに繰り出しました。季節はちょうど雪まつりのころ、夜にはマイナス10度を下回る日も多く、一年で一番寒い時期でした。

 

分厚い上着を着こんで、マフラーをきっちり巻いて、雪よけの黒い中折れ帽を被って、地図を手にビルからビルへと渡り歩いては女子トイレを覗き込みました。

 

新規のお客さんに男性と間違われことも度々あった私ですから、着膨れた姿で女子トイレのドアを開けて回る行為はなんとなく後ろめたく、女子トイレ覗き魔出没事案で通報されるのではないかとひやひやしました。

 

それでも強い意志で気になるビルのすべてのトイレをチェックし続けました。(おかげですすきのビルのトイレ事情に異様に詳しくなりました)

 

一つのビルを見るごとに地図を開き、かじかむ手でマーカーのキャップをはずし、条件に合うビルはオレンジで、却下のビルは青で塗り、数日かけて調査を終了しました。

 

結果、地図のほとんどが青く染まり、オレンジはところどころに点在する程度でした。条件は合っていても感覚的にしっくりこないところを却下すると、残ったのはすすきの界隈に何百とビルがある中でほんの10前後でした。

 

正直、ここまで条件に合致する物件が少ないとは思っていなかったので、さすがに気が滅入ってきました。

 

気になるビルのリストを仲介業者さんに渡して、このビル内に空き物件があれば見たいとお願いしたところ、すすきのの一等地・第2グリーンビルに空きがありとのことで、早速、内覧に向かいました。

 

実はビルの調査を進めていた中で断トツに印象が良かったのはグリーンビルの系列でした。グリーンビルはどこもトイレがきれいで、ビル全体の雰囲気が明るく、入っているお店にもにぎわい感がありました。

 

仲介業者さんとグリーンビルの社員さんと待ち合わせ、エレベーターで上階に上がり、物件のドアを開けてもらった瞬間、息を呑みました。今まで見てきた物件とは明らかに毛色が違うのです。

 

内装はきれいなので改装せずにすぐに開店できそうですし、間取りも私の理想にかなり近かったのです。

 

ビルの担当の方が丁寧に説明してくれたのも好印象でした。それまでたくさんのビルを見てきましたが、管理の方が仲介業者さんに鍵を渡すだけのところがほとんどでしたから、内覧の段階からこんなに親切な会社なら入店してからも安心だろうと感じました。

 

物件探しを続けて来て初めて、ここなら入ってもいいかもと思える物件に出会え、心が躍りました。

 

ただ、家賃が予算を大幅に超えていました。場所も内装も大変良いので家賃が高いのも仕方がないのですが、食べ物や酒の値段、一人で対応できるお客さんの数から逆算して家賃の予算を決めていたので、あっさりと上方修正しては開店後にしわ寄せが来ることは目に見えています。

 

帰宅後もしばらく悩んだ末、第2グリーンビルの物件は一旦あきらめることにしました。完全に候補から外したわけではなく、他の物件も探し続けながら、じっくりと考えようと思ったのです。

 

本当によい物件だから、もたもたしていたら他の人に取られてしまうかもしれないけど、そうなったらそうなったで縁がなかったとあきらめるしかないと覚悟を決めました。

 

 

その後も仲介業者さんが紹介してくれる物件をいくつも見に行きました。家賃の安いところも多かったのですが、立地、内装、トイレ、雰囲気、どれもが第2グリーンビルと比べると明らかに見劣りしました。

 

他の物件を見れば見るほど、私の心は徐々に第2グリーンビルに傾いて行きました。

 

 

つづく……

 

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